WINTER SWIMMING
岡崎竜城スイミングクラブ(Okazaki Tatsuki Swimming Club)と寒中水泳
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昭和24年初開催。
岡崎竜城スイミングクラブと
乙川が共に歩んだ歴史があります。
OTOGAWA
乙川について
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西三河随一の大河である矢作川の最大支流
旧石器時代の遺跡が残る、古来より水陸交通の結節点となり、
西三河の中心として歴史文化が発展した場所です。中世以降には源氏や足利氏の重要拠点であったことを社寺に残る建造物等が物語り、
戦国期には家康公が岡崎城内で誕生し、家康公生誕の地岡崎の繁栄は近世岡崎の発展へと引き継がれていきます。
第二次世界大戦で、焼け野原になった岡崎市。戦災都市として国の指定を受け、戦災復興事業を進めることとなります。
HISTORY
乙川における
「寒中水泳」の歴史
74年前から続く乙川の寒中水泳。
はじめて乙川で寒中水泳が実施されたのは74年前の昭和24年(1949年)です。
小学校の教員が設立した岡崎水泳協会が主催で開催されました。その後、高度成長期による水質汚濁により中断されましたが、
水質改善により復活を遂げ、岡崎竜城スイミングクラブ(Okazaki Tatsuki Swimming Club)創設者の大森国臣を筆頭に以降開催が続いていました。
しかし、7年前に乙川周辺の地区整備によりまたも中断。7年の時を経て、2024年に復活します。
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- 昭和24年(1949年)
- 第1回大会開催
当時、市内の小中学校の先生が集まって、岡崎水泳協会が設立される。協会の大きな行事として、市内の児童・生徒たちを対象に、夏に乙川で水練学校開いた。その発展として、『次は寒中水泳をやろう』という声が、先生たちからあがる。
当時は、衣食住も十分でなく、”冬に水泳なんて・・”と反対の声もあったそう。しかし、第一回大会は大盛況で、殿橋は見物客であふれた。昭和30年ころには、仮装して川に飛び込む人がいたり、河原で寸劇が行われるなど、参加者も見物客もこの【寒中水泳】を楽しみにしていた。 -
- 昭和41年(1966年)
- 第19回大会
昭和41年を最後に中断。当時の日本は高度成長期。乙川も川底にヘドロがたまったり、ゴミが投げ込まれたりし、とても泳げる状態では無かった。昭和46年、水質汚染防止法が施行され、その後乙川も徐々に清流が戻ってくる。
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- 平成7年(1995年)
- 第20回大会
平成7年の新春、寒中水泳が29年ぶりに復活した。第20回大会では、日本泳法の模範演技のほか、花火や太鼓の演出で盛り上がった。以後、毎年子供から大人まで約100名が参加するイベントへ。寒中水泳としては、日本でも指折りの参加者数である。成人の日に行われていたため、式の後、新成人が参加することもあったそう。
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- 平成28年(2016年)
- 第41回大会
新成人の男性3人を含む、9歳から63歳までの56人の方々がご参加。
2016年乙川リバーフロント地区事業が開始され、新型コロナウイルスの影響もあり、7年間大会が中止に。 -
- 令和6年(2024年)
- 第42回大会
2024年1月14日(日)8年ぶりに、寒中水泳が復活しました。
多くの共産の方にご協力をいただき、素晴らしいイベントになりました。
10歳~64歳までの男女57名が勇敢に、寒中水泳を行いました。
<寒中水泳の様子>
https://tatsuki-group.com/t-swimming-club/442.html
ACTIVITY
乙川を見直す活動
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川に親しみ
まちを活性化をする
プロジェクトを進めています。
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- 乙川とこれから
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乙川はかつて親しみのある場所で、昭和30年代には貸しボート屋があり、舟遊びや川で泳いだり楽しまれていました。
しかし、治水対策や河川整備の進展に伴い、川の利用状況が変化し、規制が厳しくなり、徐々に川が親しみにくい場所となりました。
国土交通省は2009年から「かわまちづくり支援制度」を導入し、地域の特性や実情に応じて規制を緩和、民間の収益事業を含む活動を促進、川の利用を奨励し、まちの活性化を推進しています。
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また、2014年には全国的な水辺活用の啓発プロジェクトである「ミズベリング」が始まり、川の活用を促進する新しい取り組みが始まりました。
そして岡崎では、「かわまちづくり支援制度」に登録し、乙川の規制が緩和され、乙川活用プログラム「おとがワ!ンダーランド」が始まりました。そして、2021年にはリバーライフ推進委員会が設立され、指定管理者としてホーメックス株式会社と株式会社スノーピークビジネスソリューションズを中心として結成されました。